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「すべての意図は善である」 ーセルフコンパッションのまなざしから

自分にお茶を淹れるように、自分に慈悲を向ける
自分にお茶を淹れるように、自分に慈悲を向ける

7月のことば

「すべての意図は善である」



6月、7月は、親育て講座「Nobody's Perfect」(全6回)毎週、自治体で開催していました。子どもがはじめての子でも、2人目でも、子育ては大変。

全く予定通りに進まない。

そんな毎日にお母さんたちはがっかりして、時にイライラして。

「なんて私はダメな母親なんだろう」と思ってしまったりします。


で、こうした課題感を持っているからこそ、市内の講座に足を運んで、子育て仲間と出会うチャンスがあります。

「みんな、同じように思ってる」と分かり、

一週ごとに表情が変わってくるお母さんたちを見ていて、とてもうれしく、力をいただく講座です。



仏様は「人生は苦」と言いました。

どこかで「苦」とは苦しいという意味ではなく、「思い通りにいかない」という意味なのだと聞きました。

物事がうまくいかない、思い通りに回らない時、それは一度立ち止まって振り返るチャンスかもしれません。



ほんと、そうそう毎日うまくいくとは限りません。

私にとって「うまくいかない」で思い浮かぶのは、コーチングの資格申請のためにセッションを録音してログを作ること。

録音を再生して文字起こしするのは、今でこそ文字起こしアプリで一瞬でできてしまいますが、当時は一言一言聞いて書き起こしていました。


それは私にとっては拷問のようなもので、一言聞くたびに自分の声に反応して

「なんでこんな質問をしたんだろう」とか、

「全然クライアントさんの話聞いてないじゃない!」とか

「ひどい、下手な質問ね」とか。

ありとあらゆる罵詈雑言を自分に向けて言っているのです。


こうした自分への言葉で意気消沈し、5分も文字起こしをしないうちに力尽きてやめてしまうということが繰り返し起きていました。


これは何が起きていたのでしょうか?


「すべての意図は善である」

ーだとしたら?罵詈雑言の意図は?

より自分を高めよう、より良いセッションをしようという思いの表れでした。

実のところ、決して自分を貶めるために言っているのではなく、向上心の表れでした。

ただ、もしこれが友だちだったら、こんな言い方をするでしょうか?

資格申請のためのログを作るという目標に向けては、意気消沈させるこうした言葉は、ただの「邪魔」でしかありませんでした。作業を止めるどころか、自分の自信を粉々にして、「目標を達成できない自分」を生み出していました。


「セルフコンパッション」という言葉があります。

出来事や感情、そのありのままを受けとめ、より良くしようとする慈悲という仏教用語、それを自分に向けることです。

頭の中で罵詈雑言を言う自分(自我)は、録音を聞くや「こんなんじゃ試験に受からない!」と不安になり、目の前の事実(録音)をありのままに見られなかったのです。

不安に押しつぶされそうになり、ざわざわし落ち着かず、その不安をそのまま言葉にして自分にぶつけていました。そして私自身も自我の叫びに圧倒されて、自我をなだめることができませんでした。


少し心を穏やかにして、様子を振り返ってみましょう。

振り返ると何に気づくでしょうか?


録音を振り返って自分の至らなかった部分に気づいたこと、そのことをまず喜ぶこと。

気づけなかったら、成長もありませんから。

そして罵詈雑言を言うほどに荒れ狂っている自我のエネルギーの大きさに気づくこと。

私にはこんなにたくさんのエネルギーがある。ならば、このエネルギーを無駄に使っちゃもったいないですね。


そう考えると、状況としては何も変わらないのだけれど、少し心が穏やかになって、申請の文字起こしのスピードも少しずつ上がっていきました。

もちろんすぐになんて変わらないから、10分おきに大きく息を吐いたりしながら進みましたよ。



セルフコンパッションのまなざしから

セルフコンパッションとは、「今の私に、優しさを向ける力」。

それは、自分を甘やかすことではなく、

「目の前の出来事や自分の感情、存在に"はい"と答えること」から始まります。


自分に向けた「だめな私」という言葉には、

「自分をパワフルに応援してくれてありがとう。でも今は、その言葉はちょっといいわ。」

と押し戻してもいいんじゃないかなと思うのでした。


🫖 ゆっくりお茶を飲む時間を、あなたに


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